なるほどタクシーのドライバーが普段お客様にしている京都にまつわるお話、
ここではその一部をご紹介しております。

27.湯たく山 茶くれん寺 26.龍頭 (りゅうず) 25.賀茂川から鴨川へ
24.小倉山 23.大袈裟な話 22.ありがたい話
21.くだらない話 20.時代祭 19.誓文払い
18.東福寺の桜 17.清涼寺式釈迦如来 16.お十夜
15.先斗町(ぽんとちょう) 14.上がったり大明神 13.鶯宿梅 (おうしゅくばい)
12.大文字 11.競べ馬 10.醍醐味
9.虎の子渡し 8.お亀さん 7.添水(そうず)
6.焼餅 5.京の大仏 4.太秦(うずまさ)
3.毘沙門堂 2.犬矢来(いぬやらい) 1.清水の舞台

20.時代祭

奈良時代末期、和気清麻呂が桓武天皇を狩にことよせて、東山へ案内し、京都盆地を見渡して頂き、遷都を建言します。

そして、「葛野大宮の地は、山川もうるわしく、四方(よも)の国の百姓の参りでで来るに便にして・・・」

遷都の詔(みことのり)が発布されたのは、延暦13年(西暦794年)10月22日のことでした。

時は流れ、明治28年、平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建されました。
祭神は桓武天皇と、明治天皇の父である孝明天皇です。
平安神宮

京の三大祭の一つ、時代祭は平安神宮の祭礼として平安京遷都の日、10月22日に催されます。
御所から平安神宮へ、2Kmにも及ぶ行列、総勢約2000人がそれぞれの時代風俗で練り歩きます。
最後の4列は、祭神である桓武天皇と孝明天皇の鳳輦(ほうれん)を中心としたのものです。

祭神が京都の町を巡行され、市民の安らかな様子を親しくご覧になり、
京都全市民が心を一つにゆくさきの平安を祈る


これが時代祭です。 (平安神宮には、全市域からなる市民組織「平安講社」が組織されており、つまり京都市民全てが氏子ということになります。)

19.誓文払い

源頼朝の命を受け、義経を討とうと修験者に扮して、六条堀川の館の様子を覗っていた土佐坊昌俊は、弁慶に捕まってしまいます。
そして義経の面前で、厳しい訊問を受けますが、

「私に敵意はございませぬ。偽りのない証拠に、熊野権現への起請文を一札入れましょう。」

と誓文を入れて開放されました。

ところが昌俊は、舌の根もかわかぬあくる日、60余騎を率いて夜討ちをかけます。
義経を窮地に追い込みますが、結局失敗し、堀川館で首を刎ねられました。

八坂神社のお旅所・四条の恵美須社は、この土佐坊昌俊を商売の神様・えびすさんに結び付け祀ってあります。
恵美須社

祭礼は10月20日、二十日戎といいまして、いつも口先ひとつで儲けている商売人や、仕事上やむを得ず嘘をついている芸妓さん達が、日頃の罪を詫びるためにお参りします。

また、商店街でも日頃の罪滅ぼしにと、大安売りをします。
この大安売りは、土佐坊の故事により「誓文払い」と呼ばれています。
全国どこにでも見られるようになった大安売りの起源は、このようにいつも嘘をついている罪滅ぼしで始まったものですが、さて大安売りといいながら・・・?

18.東福寺の桜

「さくら」の語源は、一説に「さ」と「くら」だそうです。
「さ」は穀物の霊を表す言葉で、「くら」は蔵するです。
桜(植藤造園)
(上画像は東福寺ではありません)

古人は春になって一斉に咲くこの花を見て、穀物の霊を宿している花だと考えたのです。
ですから、お花見は花の下でお酒を飲み、大騒ぎをしますが、騒げば騒ぐ程、穀物の霊をたたえる事になり、その年の豊作を祈願することになります。

この風習で迷惑したのが、禅寺・東福寺です。
桜の時期、境内で花見客が大騒ぎするので、修行もろくにできません。
そこで桜は一切取り除かれ、飲んで騒ぐこともないが多くなりました。

東福寺の楓
17.清涼寺式釈迦如来

嵯峨釈迦堂「清涼寺」のご本尊は三国伝来の釈迦如来と呼ばれています。
釈迦が生母摩耶夫人のいる?利天(とうりてん)へ説法に行っている間、弟子の優填王(うてんおう)は、釈迦の留守を悲しみ釈迦そっくりの像を彫刻家たちに彫らせました。

その後、宋の国に伝えられていたこの像に、当時入宋していた東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が出会い、大変感激します。
日本仏教のためにと何とか許可をもらい、宋の仏師に栴檀の木で模刻してもらって日本へ持ち帰り、清涼寺の本尊としました。
こういった理由からインド・中国・日本と三国伝来の仏像と呼ばれているというわけです。

清涼寺本堂

さて、そんな釈迦如来像のおかげで大きな財を成した財閥があります。
時は江戸時代初期、清涼寺の裏に乞食同然の政友という山師が住んでおり、彼はいつもお釈迦様を深く信心していました。

ある時、お釈迦様が西南の方角を指し示され、これを自分に対するお告げであると信じた政友は、西南へ旅立ちます。
難波から瀬戸内海を西へ・・・辿り着いた所が今の別子銅山です。
そこでおびただしい量の銅が産出され、政友から二代目の泉屋吉左衛門の時、事業は大成功します。

三代目からは、名の政友を改め、「住友」と名乗るようになりました。

16.お十夜

慈覚大師円仁作の阿弥陀如来は、大師が「女性を救われますか?」と尋ねたとき、大きく頷かれたので「うなずきの阿弥陀」と呼ばれています。
真如堂では、11月5日から十日間、「お十夜」という不断念仏の行事が行われます。

真如堂
ご本尊の「うなずきの阿弥陀」が御開帳になり、阿弥陀様の指から五色の紐が、本堂正面に立てられた柱まで延ばされ、誰でも紐を握って、阿弥陀様と結縁することができます。

お十夜の夜は、年老いてシモの世話にならないようにと、タレコ止メのおかゆが振舞われます。
鍋料理の締めとしてお馴染みの「おじや」は、お十夜のおかゆからきているとも言われています。

15.先斗町(ぽんとちょう)

「京都先斗町に降る雪も・・・」のお座敷小歌でお馴染みの先斗町ですが、ルビがふってないと読めない地名ですね。
先斗町

1670年、鴨川の護岸工事で、河原の一部が陸地になり、川筋に茶店が立ち並び町となったのが先斗町のおこりです。
川を望む先端の場所にあり、「先端」をポルトガル語でポント(英語ではポイント)ということから、ポント町と名づけられました。
京の夏の風物詩、鴨川の床は先斗町や木屋町の料理屋が川に向けて床を張り出し、納涼床で食事をさせてくれます。
昔は川の中に床机を置いてせせらぎの上でいただくようになっていたので、今よりもずっと涼しかったことでしょう。

先斗町

芸妓さんや舞妓さんの街、先斗町もお茶屋さんが減って近代化されてきましたが、以前は祇園と比べて気楽なお茶屋遊びができました。

また千鳥足の酔客の為に、石畳が千鳥模様にデザインされていました。
鴨川の千鳥も今は見かけなくなりましたが、都鳥(ユリカモメ)は今も京都の冬の風物詩です。

14.上がったり大明神

「露と落ち露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢」

戦国の世を駆け抜けた天上人、豊臣秀吉は1598年伏見城で息をひきとり、京の町を見渡せる東山・阿弥陀ヶ峰に葬られます。
その後、壮麗な豊国廟が建てられ、正一位豊国大明神として、豊国社に祀られます。
豊国社

しかし、徳川幕府は、豊臣の権威を拭い去るため、伏見城や豊国社を取り壊し、豊国廟も修理は一切まかりならぬと厳命を下します。
正一位と最高の地位まで上がった豊国さんですが、豊国廟は江戸期を通じて荒れ放題の無残な状態でした。

商売人が、ダメなことを「あがったりですわ」というのは、ここからきています。
現在の豊国神社は、明治13年に再建されました。

その時、徳川の力で南禅寺・金地院に移築されていた伏見城の遺構、桃山期の逸品、国宝の唐門が社前を飾り、名誉を回復しています。

13.鶯宿梅(おうしゅくばい)

金閣寺の茶室「夕佳亭(せっかてい)」には、鶯宿梅と呼ばれている梅の古木が使われています。
鶯宿梅

村上天皇の御代、紫寝殿の左近の梅が枯れてしまいました。
新たに御所にふさわしい梅を京中探させたところ、西ノ京に住む紀貫之の娘の館に、一本の木に紅白をつける見事な梅が見つかり、それを役人たちが持ち去ろうとしました。

その時、紀貫之の娘が

「勅なればいともかしこきうぐいすの宿はと問わばいかがこたへむ」

と歌ををしたため、梅の枝に結びます。
御所で天皇が、この短冊の歌に気づき、

「ああ今頃この梅の枝で羽を休めていた鶯が困っていることだろう。不粋なことをしてしまった。すぐに元のところへ返すように。」

といわれ、元に戻されました。
この梅を人々は、鶯宿梅と呼ぶようになり、御所では鶯宿梅以上の梅を求めるべくもなく、以来、左近には桜を植えるようになったというわけです。

12.大文字

京都の夏の風物詩「送り火」
これはお盆に帰ってこられていたご先祖のお精霊さん(おしょらいさん)が、あの世に帰っていかれるのを送る宗教行事で、船を海や川へ流す全国各地のお盆の行事と同じです。
大文字送り火

京都の近郊の村々でも、それぞれの里山で送り火をします。
昔は現在の五山以外にも「い」「長刀の形」「竹に鈴」 などがあったそうです。
火は、古来から神へ我々の願いを運んでくれるものと考えられてきました。

そして「大」は四大の「大」です。
四大とはこの世を構成している全ての要素・・・

「地」(大地)・「水」(水)・「火」(熱・太陽)・「風」(空気)

の四大要素を表し、亡くなって四大に戻ったご先祖の帰られるところを示す「大」です。

京都の市民は、お精霊さんの送り火に願い事を託します。

11.競べ馬(くらべうま)

五月五日の上賀茂神社の「競べ馬」は、徒然草にも取り上げられている有名な祭りです。
競べ馬

毎年二軒の社家が選ばれ、それぞれ十頭ほどの馬を一頭ずつ出して競走させます。
落馬事故もある本格的な競馬で、その年の稲の豊凶を占う神事です。

そして勝った方の社家は得意満面で夜毎酒宴を催し、 負けた方の社家は人目をはばかり門を閉ざします。用事があっても夜こっそり出かける始末です。

一週間ほどして行われるのが貴船神社の「しもと祭」で、これは負けた方の社家が勝った方の社家とその時の審判を呼びつけ、梅の枝で打ち据える行事です。
ふたりに対して、悪口雑言、うっぷんばらしで何を言ってもかまいません。

こうして負けた方のの社家の気持ちがおさまって、初めて祭りが終わったということで、競べ馬のために作られていた「らち」がはずされます。

「埒(らち)があく」という言葉は、ここからきています。
関西人が駄目な事を「あかん」というのも、この「埒があかん」の「あかん」なのです。

27.湯たく山 茶くれん寺 26.龍頭 (りゅうず) 25.賀茂川から鴨川へ
24.小倉山 23.大袈裟な話 22.ありがたい話
21.くだらない話 20.時代祭 19.誓文払い
18.東福寺の桜 17.清涼寺式釈迦如来 16.お十夜
15.先斗町(ぽんとちょう) 14.上がったり大明神 13.鶯宿梅 (おうしゅくばい)
12.大文字 11.競べ馬 10.醍醐味
9.虎の子渡し 8.お亀さん 7.添水(そうず)
6.焼餅 5.京の大仏 4.太秦(うずまさ)
3.毘沙門堂 2.犬矢来(いぬやらい) 1.清水の舞台