10.醍醐味
貞観年間(859?877年)、理源大師・聖宝(しょうぼう)が、山上に草庵を結び、准胝観音と如意輪観音をまつったのが、醍醐寺の起こりです。
聖宝は、山中で白髪の老人(横尾明神)が、涌水をおいしそうに飲み、「ああ、醍醐味なり」と嘆声を発するのに出会います。
醍醐寺の名はこの事にちなみます。

野球の醍醐味、相撲の醍醐味と言いますが、醍醐味とは、牛乳を精製していく過程で、
「乳」「酪」「生酥(しょうそ)」「熟酥(じゅくそ)」「醍醐」
の5段階の味があり、「醍醐」は、その最上のものを指します。
これを仏教の修行によって到達する段階になぞらえ、醍醐味は、仏の悟りの境地にあたります。
醍醐水は今も涌いており、儀式の時に聖水として使う閼伽の水として利用されています。
「閼伽」とは、アクアで水のことです。
醍醐味はサンスクリット語で、サルピス・マンダといい、清涼飲料水でおなじみのカルピスの名は、醍醐味からとられています。

9.虎の子渡し
南禅寺方丈前庭は、小堀遠州による「虎の子渡し」と呼ばれる枯れ山水庭園です。
石を親虎・子虎に見立て、白砂で川水を表し、虎の親子が河を渡っていく様子にしてあります。

中国で素晴らしい皇帝が現れ善政がしかれますと、兎や鹿を襲って食べている虎にとっては、悪い事をしている気になり、大変居心地の悪い国になったものだと、子供達を 連れて国境の運河を渡って他国へ去って行きます。
「虎の子渡し」とは、善政がしかれた国を表し、時の政権・徳川幕府をたたえているわけです。
ここでクイズです。
親虎が対岸へ子供を一匹ずつ咥えて渡したいのですが、親虎がいないと、豹の子は、虎の子を食べてしまいます。
豹の子も含めて一匹ずつ咥えて、三匹とも対岸へ渡すには、どういう順序で渡していけばいいのでしょうか?
このクイズから、やりくりしなければならない家計を「虎の子渡し」といいます。
また、虎は子供をとても大事にすることから大事なものを「虎の子」というようになりました。
クイズの答えは[Ctrl+A]or[command+A]で見ることができます。
最初に豹の子を渡し、次に虎の子を渡し、その帰りには豹の子を咥えて戻り、そしてもう一匹の虎の子を渡して最後に豹の子を渡します。
8.お亀さん
千本釈迦堂の本堂は、1227年に建てられた国宝の建築物です。

当時この建築を請け負った棟梁・長井飛騨守高次は、本尊を飾る四天柱の一本の寸法を誤り、短く切ってします。
取り返しのつかない事をしてしまい悩んでいる夫に妻のお亀が、お釈迦様の夢のお告げの話をします。
それは四本の柱を短く切りそろえて、斗供(ときょう)を組んで継ぎ足すという方法 でした。
斗供のおかげで立派な四天柱ができ、高次の名誉は保たれました。
しかしお亀さんは、女の入れ知恵で上手くいったと世間に知れたら、夫の名誉を傷つける事になり、自分が生きている限り、夫はいつもそれを心配するのではないかと、上棟式の前日に自害します。
高次は妻の心に打たれ全てを公表し、御幣の先にお亀さんの面を飾り、妻の冥福と本堂の完成を祈願しました。
この事から現代でも上棟式には、お亀さんの面を飾ります。

災い転じて福となす―お亀さんは、お多福と呼ばれるようになります。
千本釈迦堂の境内にある大きなお亀像は、建築関係各企業が寄進したものです。
7.添水(そうず)
詩仙堂の石川丈山の考案による添水は、僧都という人のことです。

奈良時代の終わりから平安時代にかけて、玄賓僧都(げんびんそうず)という高徳の僧が天皇に召されました。
しかし玄賓は名声を嫌い、奈良の「山の辺」を出て、丹波や備中の田舎を転々とします。
世間では、山田を転々とする玄賓僧都の事を山田僧都と呼ぶようになりました。
備中国・湯川寺に滞在していた山田僧都は、収穫の秋になると、農夫のいでたちで、雀やカラスを追い払い、農民たちに大変感謝されました。
「山田の案山子(かかし)」とは、案山子役のを引き受けてくれた山田僧都の事を農民たちが親しみを込めて呼んだものです。
石川丈山は、この故事により、鹿や狸を追うこの道具を、玄賓僧都の陰徳を偲んで「僧都」と名付けました。
ししおどしとも言いますが、これは昭和32年に苔寺で同じものが作られ、「鹿おどし」と表示されて以来、拝観者の多かった苔寺での呼び名が一般化したという事です。
6.焼餅
上賀茂神社前に、寅さんの映画の撮影にも使われた「神馬堂」という焼餅屋があります。

その昔、ここのご亭主が、浮気ばかりするものですから、奥さんがいつも妬いていました。
妬いてばかりいる奥さんに、ご亭主がイライラして、
「おまえ、そんなに妬いている暇があったら、餅でも焼いたらどうやねん」
と言ったところ、ふてくされた奥さんは、
「ほな、うち餅焼かせてもらいますわ」
と言って、本当に餅を焼き出し、売り始めました。
ところが、中に小豆あんを入れ、両面をこんがり焼きあげたこの餅が、おいしいと大評判になり、参拝帰りのお土産として大人気。
今でも行列の出来る店として有名です。
「妬く」という言葉が、「やきもちをやく」という言い方になったのは、この店が由来です。
5.京の大仏
三十三間堂の向かいの交番は「大仏前交番」といいます。
方広寺の大仏といえば、奈良の大仏よりも大きく、西へ延びる道は今も正面通りと呼ばれています。
豊臣秀吉の威光を示す青銅の大仏さんは、あわれにも徳川の世になって取り壊されます。
大阪冬の陣・夏の陣のきっかけとなった「国家安康」「君臣豊楽」の鐘は、家康を断ち切り、 豊臣が楽しむとして、徳川を呪う証拠として残されます。

また江戸時代初期は、明銭が普及していましたが、取り壊された大仏の銅で、おびただしい数の銅銭が鋳造されました。
それが一文銭「寛永通宝」です。

一昔前、ジャイアント馬場の16文キックが有名になりましたが、昔は足のサイズは、10文(ともん)や11文という呼び方をしていました。
これは大量に出回った一文銭「寛永通宝」が長さの単位になったからです。
4.太秦(うずまさ)
「うずまさ」と読みます。秦の始皇帝の末裔と自称する秦氏は、朝鮮半島からの帰化人で、土木・養蚕・機織等の技術を持っていて、天皇にも大事にされました。

雄略天皇の御代、秦酒公は、各地に分散し繁栄している秦氏の長が自分である事を認めてもらうために、貢物をうずたかく積み上げ、 天皇から秦氏の長であることを示す「太秦」という地名をもらいます。
「太」は一番という意味ですから、秦氏の長という事になります。
ウズマサとうい読み方は、朝鮮の読み方でウズ(貴)マサ(勝)で、これも族長という意味です。
平安京造営に功のあった秦氏も、伴大納言応天門の変で、濡れ衣を着せられ、東国に飛ばされてしまいます。
平安時代、藤原氏の天下はますます、ゆるぎないものとなってゆきます。
3.毘沙門堂
天台五門跡のひとつ山科毘沙門堂は、格式の高い寺院で、参勤交代の西国大名も素通りせず、挨拶に立ち寄ったと言われています。

ここには、立派な襖絵のある部屋がいくつもありますが、梅や竹が描かれているのに鶯や雀が描かれておらず、ひよどりやしまひよどりが描かれている襖絵のある部屋があります。
訪ねていって、この部屋に通されれば、いくら待っても誰も会いに来てくれません。
それは、梅に鶯、竹に雀というように取り合わせというものは決まっているものですが、この部屋では合わない状態になっています。
つまり、「会わない」部屋です。
直接、都合が悪いから帰って下さいと言えば、相手を傷つけるのでこんな部屋を用意したわけです。
この部屋に通された人は、絵の意図に気付き、自分の方から
「急用を思い出しましたので、また後日参ります。」と、引き下がります。
はっきりものを言わない京都のおつきあいのひとつです。
2.犬矢来(いぬやらい)
お茶屋さんや料理屋さんの壁際に、竹で組んだ矢来のようなものが置かれていますが、京の街並みの景観のひとつです。

建物の犬走りと呼ばれる所に置きますので、犬矢来といいます。
では、なぜ犬矢来を置くのでしょう?
犬のおしっこよけ?
雨だれで建物の根元が腐るのを防ぐもの?
そういった役目もあるのでしょうが、実は雨宿りをご遠慮下さいというものです。
料理屋さんの中ではお客様が大事な秘密の話をしていることが多いものです。
雨宿りの人が、聞くとはなしに中の話を聞いてしまうかもしれません。
料理屋さんにとっては、信用問題にもなりかねません。
そのために、立ち聞きを防ぐ犬矢来が置かれます。
1.清水の舞台
清水の舞台といえば、京都でももっとも有名なところです。

思い切った事をするときに、「清水の舞台から飛び降りたつもりで」
といいますが、この舞台は、もちろん飛び降りる ために作られたわけではありません。
ご本尊の観音様に、御利益をいただいたお礼に、能や踊りを見ていただき、楽しんでもらうための装置です。
両側の翼廊は、琴や鼓などの楽器を奏でる所です。
そして舞台は檜板がしきつめられていますが、雨水が流れるように斜めになっています。
実際に演じるときは、さらにその上に檜板で水平の舞台を作ります。
京の清水の観音様への奉納舞は、当代一流の演者が選ばれます。
ここから、ハレの舞台を「檜舞台を踏む」というようになりました。











